おりおりの庭園論 『庭を大事にしよう』   龍居竹之介 著

<──前略──>

【試行錯誤の中で】

 庭を大事にしようとは、誰もが思っている。しかし大事にしているつもりが、実は正反対だったりもする。庭の愛し方もまた試行錯誤の繰り返しなのではなかろうか。
 文化財庭園とよくいう。文化財としてその価値が認められた庭を指しての言葉だ。それは町や村、あるいは市や区が認めたものもあれば、国や県が認めた庭もある。こうして認めることを指定という。
 指定されるのは名誉ではあるけれど、同時に重い荷物を背負うわけである。それはいつも指定されたときの状態で庭を維持しなければならない責任の発生だ。ちょっと考えると大した責任でもないように感じるが、実際は大責任なのだ。庭は基本的に姿を変えて行く。素材の中心に植物があるためである。植物は生まれ育ち、やがて枯れてしまう。そしてまた新しい生命がスタート、以後はいわゆる輪廻を重ねて行く。人間の一生と似たサイクルで日を送っているのだ。
 文化財として認められたとき、その庭にあった植物も同じこと、一日ごとにそれは育ち、あるいは枯死して行く。時の流れとともに指定当時とはその顔形が好むと好まざるとにかかわらず、変化をとげているはずである。ある一定の顔形にいつも整えておく必要が、その時点でもう生じている。
<──中略──>

【文化財の存在価値とは】

 昨年11月、文化審議会(高階秀爾会長)は、国の名勝として二件を指定るすように、河村文部科学相に答申した。それは秋田県仙北町の池田氏庭園と、横浜市の山手公園であった。この二件の指定はある意味では大変意義深いものである。
 池田氏庭園の場合は、秋田県で指定された初の庭園であること、いわば記録物であろう。また山手公園は近代の公園として初の文化財指定になるから、ころも記録物だといってよかろう。
 池田氏庭園は、秋田市の千秋公園を設計した長岡安平の設計協力を得て、明治39年から整備がはじめられ大正時代に完成している。県内一の大地主として知られる池田氏だけに敷地は4.2ヘクタールにものぼり、同家の家紋である亀甲をイメージして六角形に土地を区画しているユニークさもある。流れのある池、そして洋館や土蔵なども残され、田園地帯に浮かぶ島のような邸宅ともいわれている。
 ついでのことだが、池田氏は明治22年から昭和18年まで、三代にわたって高梨村の村長(現・仙北町)を務め、明治40年には私財を投じて学校給食もはじめるなど、慈善事業にも力を入れた家柄であるという。  
 ところで同じ秋田県内で、もう一つ話題になっている文化財庭園がある。秋田市手形にある如斯亭(じょしてい)がそれだ。
 寛保元年(1741)に秋田藩士の大島左中が、自分の別邸として使っていたものを、五代藩主佐竹義峯に召し上げられたとか。大島時代から風光明媚なことで知られ、当時は得月亭と呼んでいたと伝える。
 義峯はここを鷹狩りや遠出の休憩所として使ったが、庭は九代藩主佐竹義和のころに完成したといわれ、義和は松平定信とも親しく、藩の財政にも力をつくして名君と呼ばれた藩主だった。
 如斯亭の名は「逝く者は斯くの如きか、夫れ昼夜をおかず」という孔子の語からとったという。庭は如斯亭の北側に北下がりに広がっていて、斜面は芝生地になっている。降りきった地点に東西に長い池泉がつくられており、池への水は東北隅の瀧口から落ち、流れとなって西の端に建つ茶室・清音亭を経めぐって流出する。
 この池泉の先には東から西へ高さを低めた築山がしつらえられ、東北の築山上に立石二石による瀧口が構えられていて、その脇に三層石塔が添えてある。このあたりは如斯亭内に掲げられている如斯亭十五景を描いた古図ともよく合致している。この十五景は義和の命で那珂碧峰が選んだもので、この中の巨亀嶋と渇虎石という巨石は紀州徳川家から贈られたものという。
 第二次大戦後、如斯亭は丸野内氏の手に移ったが、昭和27年11月1日付で、建物二棟(如斯亭、清音亭)と、庭園1,213坪が、秋田県史跡第一号として、文化財指定されている。丸野内家では一時敷地内で旅館営業などもしていたが、管理の負担がかかりすぎてきたことから市に寄贈しようとしたが、受理されなかった。
 引き続き秋田県にも働きかけているが、これも受理は難しそうだという。こうした寄贈話のきっかけとなったのは、相続問題からである。先代当主が亡くなり、その夫人も平成15年4月に死去されたことで、残った親族が維持困難という考えから、再度、寄贈の話を持ち出したという。
 県も市もその重要性は認識しているものの、受け取ったあとの維持費の捻出が難しい点、活用の見通しがない点などを理由に、物別れになっているようだ。それにしても旧藩主の別邸であり、県指定史跡の第一号という栄誉も受けているこの如斯亭は一体これからどのような道を歩んで行くのだろう。
 今回、国指定名勝となった池田氏庭園は、長岡安平の協力で生まれたが、その明治39年に先立つこと11年の明治28年という年、長岡は千秋公園づくりの一日、如斯亭を訪れ「少なくとも東北にはこのような純日本庭園は二つとあるまい」と激賞したという。
 一体、文化財の存在価値とはどういうものなのであろうか。たまたま同じ県内で一方は脚光を浴び、一方は荒れるに任せ、その上、ときによっては無に帰する恐れすらあるとなれば、考え込まざるを得ない。それにしても<県指定第一号>という文字がいやに軽く見える。

【維持する難しさ】

 庭はつくるより維持するほうが大変である。つくるときは楽しさが先に立っているし、庭をつくること自体、余力があると見てよかろう。もっとも中には見栄のために無理することもなくはない。他人と競うといった場合はさしずめそうである。
 しかしできあがった庭を、しっかりいつも整えておくには長期的な余力を要するといえよう。それは公共的ないわゆる行政も個人も同じである。行政だから維持が大丈夫とも思えないのは、担当者が次々と転出して行くことで明白だろう。庭にくわしく熱心に管理する人がずっと続いていればすばらしいが、まずそんなことは望むべくもない。むしろ不熱心な人の方が多いとさえ思われる。
 東京都はいま文化財庭園の維持管理のあり方について改めてまとめにかかっている。そうした動きが出るということは、この面の対処に悩んでいるせいだといえなくもない。如斯亭問題を取り上げた平成11年の新聞報道では、市は寄贈の話について、
──ありがたい話でもあり、予算要求をしたが、通らなかった。寄贈を受けた場合の整備、活用計画が詰まっていなかった。これではまだ(寄贈は)受けられない、と判断された。
──今後はどう整備し運営するかを詰め、(寄贈について)再検討したい
などと答えている。これは平成11年のことだが、その後も好転はしていないらしい。
 要するに窓口だけでなく行政全体がしっかり顔を向けてくれない限り、進展は見込めないという感じである。受け取る側としては、無料寄贈ほど高いものはないとう見方であろうから、無償で贈りたいといっている丸野内家の側とは、このまま平行状態で進むしかないのではなかろうか。
 こうなるとやはり一番気の毒なのは当事者である如斯亭そのものである。
 旅館、料亭を開かれていたころ、その利便性を優先させて、庭に手を加えられているものの、その骨格は藩主別邸時代そのままであるから、いまなら旧観に復させることも決して至難の技ではない。
 その意味で実は如斯亭十五景の図は、何より貴重といわねばならない。むしろこの図の存在こそこの庭の最大の価値と魅力でもあるのだ。
 もともと庭の図は、そうそう多く残されているわけでもない。大変有名な庭、たとえば江戸の尾張藩下屋敷のいわゆる戸山荘、あるいは徳川将軍家別邸としての御浜御殿などは、さまざまな図が残るが、普通は完成記念に美しい姿に絵師がまとめたという形のものも多い。
 そうした意味合いからは、如斯亭の図は十五景という名の下に、庭園内のポイントが場所の名前ともどもしっかり書き記されている。これが何よりすばらしいことなのである。普通は、何景、何勝と記されているも、それがどこを示すかはわからないことが多い。中には夢窓国師の天龍寺十境のように、寺内の庭園部分だけではなく、嵐山や渡月橋など外部の景観までとり入れているケースさえあるのだ。東京の六義園にも八十八の景勝が選ばれているものの、元その位置にあったはずの石の標柱などは移動されてしまったものも多く、現在も正確は期しがたいと思われている。
 そうした意味で、如斯亭十五景図はそのまま庭園内での十五景の位置を明確に示していて、実にありがたくもまた嬉しい存在であるといえよう。
 この庭づくりに手を染めた佐竹義和が親しくしたという松平定信は、庭の好きな大名としてもよく知られている。金沢の兼六園の命名者とも伝えられ、自身の築地の屋敷の庭、浴恩園にも多くの景勝地をつくって名を添えている。そのようなことから、義和の十五景命名の蔭には定信のアドバイスなどもあったかも知れない。
 いずれにせよ維持の大変な庭と同様に、荒れた庭を復旧することも大変ではあるが、こうした資料は、その大変さをずっと緩和してくれるものでもある。
 維持は難事業だが、それを少しでも容易にするがためには、作業資料くらい重要なものはない。少なくともこれによってポイントポイントが明確になれば、維持も整備もきわめてスムーズに行えるわけなのである。

【生かして使うのも大事】

 庭は一般的にいうなら憩いのためのスペースである。そして同時に人と同じように生かして使わなければならないものでもある。
 公共的な庭の場合は、特に使うことが大切になる。しかしときによると使わせないようにしている場合もなくはない。公園庭園でよく見受けるのは、茶室などの利用を禁じているケースである。これは一番マイナスだといっていい。建物そのものの荒廃に拍車をかけるだけの行為だからだ。
 管理が面倒であるし、使わせれば建物が荒れる、特に数寄屋はその点でもっとも弱くもろいから、そっとしておこうという考えから出ているのだと思う。しかしこれはまったく逆である。使うことによって空気の流通もよくなり、いわば建物の健康状態がよくなってい行くからであって、むしろ雨戸を閉め切っておくほうが、朽ちやすいのだ。
 その意味からいえば、如斯亭など使わなければもったいない。使うこと使い込むことによって、さらに艶も出て味わい深さを増すに違いない。茶室の清音亭にしても同様である。それが使うどころかいまや無くなりかねないところに追い込まれているとは、いうべき言葉すら見当たらない。
 同じようなケースは全国に数多くあると思われるし、早晩同じ状況におちいりそうなものまで加えると、大変な数にのぼるだろう。生かして使うにはまずそれを手厚く存続させなければならないのだ。それにしても全般的に行政というのは情けないものというほかない。個々人の感覚ではなく、組織としての文化的な問題への対応感覚がわからないのである。文化財産に手をさしのべてつぶれるのを防ぎ、生かして使うのも行政の仕事であろうに。

【庭を泣かせないで…】

 何々は泣いているーーといった宣伝用の惹句が、よく見られたものだが、それを真似るなら、庭を泣かさないでとか、庭は泣いているとでもいうところだろう。
 国では文化景観というものをいま強く打ち出そうとしている。それにともなってその指定基準の見直しにも手を染めている。そうした中で一つ問題となるのは、庭の場合、所有者の意向があまり反映されないことである。
 どちらかといえば文化財として指定するという側が強く、指定される側はただ感謝していればよいといった関係にとどまっている。つまり所有者側の主張はあまり届かないと考えてよかろう。
 所有者側からの訴えの中心は何といっても相続税を筆頭とする税金問題であろう。これについての何らの保証がない限り、将来的に文化財のような価値ある庭は減少して行くこと、明らかなのだ。
 折角、長い年月にわたって、代を重ねて守ってきて、その価値を認められたにせよ、結局は生きるためには守ってきたものを捨てさらねばならない。これほど情けない話はあるまい。いま日本の文化財庭園で余裕を持って維持しているところは、そう数多くあるものではない。大体、公園として最初からつくられたものでもない限り、庭を見せることで得られる収入で、年間の維持費をまかなえるところは、ごくわずかな数にしかすぎない。
<──中略──>
 庭は日本の文化の代表の一つともよくいわれる。しかし実際は打ち水でなく涙の散水の下に明け暮れている。


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