結婚して、子供が生まれた コピーライターを辞めて、秋田へ帰ろう
「小西さん、明日十人程度の集まりあるんだけど、おいしいもの何かない?」
「冷凍庫にはカモ一羽入ってるけど、一羽じゃ足りないでしょ」
「うん、ちょっとね。ところで今、タラは揚がってるの?」
「昨日も漁師に電話したけど、やっぱり一月にならないとだめだって。今、底引きはハタハタ引いてるっていうし・・・」
「分かった。今回は市民市場に行って適当に探してみるよ」
これは、そば屋の主人からの電話。
こんな内容の電話が、知人や友人からかかってくることがある。その都度、妻から
「お父さんはいったい何屋さんなのよ!」といやみを言われてしまう。
僕は一応、秋田市在住のフリーライター。なのに仕事の電話よりも、この手の電話や遊びの誘いの方が圧倒的に多い。妻のいやみではないが、自分でもときどき、何屋なんだろうと思ってしまうこともある。
新鮮な旬の魚を漁師から直接受け取って知り合いの店に卸しても、手数料はもらう気になれない。漁師さんと一緒に沖に出て、少々手伝うのは趣味の世界。帰りにお土産をもらってくるが、自家消費と友達のところへのおすそ分けで金にはならない。金を稼ぐのは、やっぱりライターとしての仕事だ。
自分でいうのも何だが、田舎でフリーライターを続けるのは大変だ。はっきりいって自転車操業、いや一輪車をこいでいるといった方が正確かもしれない。とはいっても自分で選んでしまった道だから、このままこぎ続けるしかないのだが・・・。
僕は東京の私立大学を卒業後、一応、東京でネクタイを締めて出社する会社員になった。しかし、会社になじめず二年ほどで退社。フラフラしていたら知り合いがデザイン会社を紹介してくれ、コピーライターとして採用してもらった。
広告のいろはも知らないまったくの素人だったが、さっそく「コピーライター」と肩書きの付いた名刺をつくってもらった。しかし仕事といえば得意先に原稿を届けたり、プレゼン用の企画書をコピーしてホチキスでとじたりと、まったくの雑用係。その間に簡単なコピーを書かせてもらい、厳しく添削してもらった。
当時コピーライターといえば人気のある職業で、糸井重里や仲畑貴志などがブリブリいわせていた時代。
「不思議、大好き」だとか「おいしい生活」だとか、コピーが社会の指針として大きな注目を集めていた時代だった。
売れっ子コピーライターはそれこそ華やかで、キャッチ一本何百万円のギャラという話が伝わってきた。しかし僕が勤めていた会社は、販促関係の仕事が比較的多く、カタログやリーフレット、展示会の案内などがメインで、華やかな世界とはある程度距離があった。おかげで、キャッチコピーより長めのボディコピーの書き方について厳しく指導された。
この会社に勤めていたときに結婚し、一年後に長女が誕生した。子どもの頃から釣りが好きだった僕は、水に関係した名前を中心に考え、長女に「悠水(ゆみ)」と命名した。
三十歳が近くなると「もう、東京はいいや」と思うようになり、
「秋田に帰る!」と妻に宣言。妻は「雪のある所には行きたくない」と抵抗したが、
「秋田市は雪が積もらないから」と言って説得し、秋田への Uターンが決まった。