干拓前の八郎潟周辺には、潟船を作る船大工や漁具を作る鍛冶屋など、多くの職人さんたちが潟端ならではの独特のモノを作っていました。自性院前に住む杉淵茂元さん(66)は鍛冶屋として漁具や農具を作っていた方です。八郎潟の漁業が最も盛んだった頃の、鍛冶の仕事についてうかがいました。
漁師の話を聞いて何度も作り直した
実家は菓子屋だったども、戦中戦後は砂糖などの材料も少なく、菓子作りどころではねがった。そこで俺は昭和21年に国民学校の高等科を出てから、土崎の鉄工所に入った。そこには2年間、23年には五城目の打刃物を作る工場に移った。上手な親方の元で、6年間はいろんな事を教えてもらった。地元で仕事をするからには地元ならではの作業もあるべと思って、二田の鍛冶屋でもう一年修業。独立したのは昭和30年だったな。
包丁、ナタ、カマ、船のイカリなどいろんな金物を作ったども、一番心に残っているのは「ケンコマンガ」、シジミケンコ(シジミ貝)を獲る道具だ。
天王で仕事を始めた頃のマンガは、ほとんどが鉄の丸棒の先を単純に削ったものだったな。俺は丸棒の先に角度が付けば泥の中によくささって、ケンコがもっと獲れるべと思った。そこで実際に使ってる漁師の話を聞いて、いろいろ角度を変えてみた。
浅くてもダメ、深くてもダメ。なんとか納得できるマンガが出来た頃から、注文がいっぺ来るようになったな。「あれの作ったマンガは使い易くてケンコもいぐ獲れる」。そんな評判が伝わったんだべな。それはそれは、おもしれがったよ。 |