今は四方を美しい水田に囲まれている「塩口地区」ですが、干拓前は潟に面しており、漁業が盛んだった所です。ほとんどの家は自宅近くに船着き場を持ち、潟での漁が暮らしを支えていました。しかし、干拓と埋め立てにより船着き場は消え去り、かつての面影はまったく残っていません。現在は残存湖に通じる水路に地区の船着き場が設けられ、その両側には漁船が整然と浮かんでいます。
多くの漁師のいた塩口地区ですが、今なお漁業を専業としている人は、3.4人。その中の一人、桜庭為治さん(昭和4年生まれ)に、昔の漁についてお話をうかがいました。
漁場まで船をこぎ続けて4〜5時間の時も・・・
もちろん親父も漁師。小さい時から親父と一緒に船に乗ってたけど、高等小学校を出てからは毎日のように漁にでたな。家の前から現在の堤防の付近まで、「ケナ」と呼ばれる竹の柵を建ててな。その先に網を仕掛けると、ケナに沿って泳いできた魚がそっくり入る。ボラ、シロメ、ウナギ、カレイ、なんでも入ったな。
大変だったのは遠くまで行く時。親父と二人で船をこいでも、今の大潟村付近まで、風のない時で4.5時間。いい風のある時は帆を上げて走ったから楽だったけどな。
しばらくして焼き玉エンジンを使うようになったども、今のエンジンと比べれば、オモチャのようなものだったな。シリンダーはひとつで、2馬力程度。そんなエンジンで木造の重い船を動かすんだもの。向かい風が吹けば、船は進まね。それでも条件のいい時は大潟村まで1時間半位で行ったな。当時はすごい機械だと思ったども、今の船外機だと、同じ距離でも20分で行ってしまう。
網入れの場所は、男鹿の寒風山、真山を目印にして決めたな。寒風山と真山が重なって見えれば「一枚」。逆に見えるようになると「二枚」というようにな…。だから親父と網の場所を話す時は、「何枚目のどこそこ」という話ですぐわかる。それにしても昔の潟は広かった。魚はたくさんいたども、広いだけ、網入れが難しがったな。 |